少女は真っ暗な天井を見上げた。
仰向けに水面を漂いながら、どこまでも続く天井を見上げた。

「夢現〜水〜」

八月の太陽は暑く、町中で焚き火をしているようだった。
少女は、お気に入りワンピースを着て、麦藁帽子を深々と被る。そして、白いサンダルを鳴らして、白い町の中を歩く。
昼間だというのに誰一人としていない。
「みんな、この暑さで外に出れないのね」
少女は額の汗を拭いて、そうつぶやくと、辺りを見回した。
真っ白な建物が太陽の光を受けて眩しいほど輝く。
白い地面はゆらゆらと揺れ、少女の目を欺こうとした。
少女は、暑さでぼやける頭を二、三度振り、再び歩き出す。
太陽は頭の上で容赦なく照りつける。
少女は額に汗をためながら、
迷路のように人を欺く陽炎の町をあてもなく歩いた。
サンダルの音は、響いてはこちらに帰ってくる。
その音に、暑さでうなだれる猫が返事をした。
少女は猫の鳴き声に耳を傾けることもなく裏道に入った。

建物と建物の間に、隙間のように空いた裏道は、
日が当たらず、黒い影がどこまでも続いている。
「ふう、涼しい」
少女は一息ついて、裏道をまっすぐ歩き始めた。
裏道は、どこも同じような景色ばかりが続く。
さっき、十字路を右に曲がったかと思えば、
また同じような十字路に出くわす。
三叉路を左に進んだかと思えば、また同じような三叉路に出くわす。
「さっきから同じところばかりね。
この暑さの中でこうも歩き続けだとのどが渇くわ」
少女はそう呟いて、からからに乾いた喉にそっと手を当てた。
そして、これから進む十字路を右、左、真正面と見渡した。
右はずっと暗い道が続いている。
左は行き止まりだった。真正面の道は出口。
少女は考えた。
このまま暗い影の中で涼みながら歩くのもいいかもしれない、
しかし、ここで外に出なければ、次にいつ出口を見つけられるかわからない。
「どうしようかな……」
少女が、額の汗をぬぐいながら右の道と正面の道を交互に見つめていると、
少女の目にあるものが映った。
真正面の道に差し込んでいる白い光の奥には、井戸のような物が見える。
陽炎と光と距離の三つが重なって、
ひどく曖昧なものだったけれど、
少女の目には確かに井戸に見えた。
少女は、井戸が目に映ったとたんに考えることを止めて、井戸の方へ走った。
喉の渇きとうだるような暑さだけが少女の足を前へ前へと進ませた。
硬いサンダルの底が出す、甲高い音が裏道中に響き渡る。
出口は、遠いようで、徐々に近くなっている。

少女が飛び出したのは、小さな広場だった。
幾つもの裏道がここへ続いている。
その幾つもの道を惹きつけるように、
井戸は真ん中にぽつんと佇んでいた。
桶を引き上げる滑車の木の部分は
半分腐り、鉄は錆付き、ロープはボロボロで今にも千切れてしまいそうだった。
少女は、照りつける太陽の下をゆっくりと歩き、一歩ずつ、慎重に井戸に近づいた。
ポカンと口を開けた井戸は暗く、吹き上げる風が何かの声のように聞こえた。
吹き上げる風は涼しく、少し強かった。
風は、少女の麦藁帽子を軽々と取り上げ、
暑い太陽が輝く青い空に高々と放り投げた。
帽子は、木の葉のようにひらひらと身を翻し、
ゆっくりと少女の目の前の井戸に吸い込まれるように落ちていった。
「大変、帽子が落ちちゃう」
少女は急いで、井戸に落ちる帽子に手を伸ばした。
すると、少女は吸い込まれるように大きく開いた井戸の口に吸い込まれていった。

目の前は真っ暗。見上げれば、井戸の入り口が小さくなっていく。
目の前の麦藁帽子と自分以外は何も見えない。
けれど、体が落ちていくのがわかる。
入り口の光が見えなくなったころ、
少女は、突然大きな水しぶきと大きな水音とともに水の中に落ちた。
昇り行く沢山の泡と、水の冷たさを肌で感じたかと思うと、
少女の体は、水に落としたゴムボールのように勢いよく水面へと押し上げられた。
少女は、口に入った水を吐き出すように、大きく息を吐き出した。
辺り一面はさっきよりもずっと暗く、外よりも涼しく、音が遠くまでよく響く。
当たりを見渡しても何も見えず、少女が落ちた水溜りの底には足は届かない。
少女は、とりあえず肩の力を抜いて仰向けになった。
少女は真っ暗な天井を見上げた。
仰向けに水面を漂いながら、どこまでも続く天井を見上げた。
「ここは、どこですか。誰かいませんか」
少女が遊び半分でそう叫ぶと、遠くで誰かが少女の声まねをした。
少女は、自分が動くたびに波紋が広がるのがなんとなく分かった。
目を閉じて想像してみる。
この広い空洞に、どこまでも、どこまでも、波紋が広がるのを。
この暗い空洞に音とともに波紋が広がり、
そして、音とともに消えていく。
少女は、どうしてか、この静かで涼しい空洞が気に入った。
「ここはすごくいい場所ね。静かで、涼しくて、広い。
外なんかよりもずっといいわ」
少女はそんな言葉を誰に言うでもなく、
ただそう呟くと、ふうと一息つき、大きく深呼吸をした。
涼しくて静かな空気を独り占めしている気分だった。

しかし、そんな気分は突然の出来事に邪魔された。
突然少女の体が傾き、そのまま大きな波に、包まれるように飲み込まれた。
少女は暗い水の中で、波に押され、何度も水の中で回った。
少女は、手足を大きく動かして水面に顔を出した。
さっきのような大きな波は来ないものの、何度も小さな波が少女にぶつかった。
少女は押し迫る波をかき分けながら叫んだ。
「もう、冷たい」
しかし、波はそんな少女の言葉はお構いなしに、
徐々に、波を高くして少女にぶつかった。
少女はその度に、波に飲まれ、水の中で何度も回された。
四度目の大波に飲まれ、水面に上がった少女は空洞に向かって怒った。
「もう、どうしてこんなに波が立つのよ。
どうして、静かなままでいてくれないのよ」
少女の声がこだました。
すると、山彦のように、どこからとも無く声が響いてきた。
―それは無理です―
その声が聞こえると、波は徐々に穏やかになっていった。
少女は少し不思議に思ったが、臆することなくその声に聞いた。
「どうして」
―それは、その水が今、在るからです。在るものは動き。
どんなものも動き、時に止まり、そしてまた動きます。
それは、今、在ることの証であり、その証として今、在るのです。
水は、今在るからこそ動くのです。わかりましたか―
少女は、その声に、どこか強い説得力を感じ、納得してコクリと頷いた。
―では、もうお帰りなさい―
声はそうこだまして、消えていった。

少女の目が覚めた時、白いシーツのベッドの上で横になっていた。
白い真昼の光は、白いベッドと少女を照らす。
白い壁紙の部屋を吹きぬける風は、
白いカーテンを揺らして白い扉から廊下へと抜けていく。
「いつの間に寝たのかしら」
少女は欠伸を一つして目をこすり、ベッドから降りた。
そして、足の裏でフローリングの気持のいい冷たさを感じながらゆっくりと廊下へ出た。
「それにしても変な夢を見たわ……」
少女はそう呟きながら部屋の扉を閉めた。
部屋に残されたのは、
白い家具達と窓からベッドの上に点々と落ちる小さな水滴だけだった。

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