「蛍」
「ほう、ほう、ほうたるこい。あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ。ほう、ほう、ほうたるこい。」水面が揺れて、僕の顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。小さな波が僕の前髪と額を混ぜて、目が何処にあるのかを分からなくした。蛍の光だけがはっきりと映る・・・。  僕の九歳の忘れられない夏は、車の揺れと冷房の音に目を覚ましたことから始まった。ぼうっとする頭で見た窓の外には、閑散とした畑が広がっていた。母が助手席からこっちを見て「あらヒロキ、もう起きたの?もうすぐ着くからね。」と優しく言った。 毎年、夏になると僕は祖母の家に家族で遊びに来る。祖母の家は山と畑に囲まれた、本当の田舎だった。この年で九回目、毎年来ていれば、そろそろ珍しくも何ともない。むしろ、祖母の家を僕はあまり好かなかった。行けば、いつも父は叔父と「懐かしい懐かしい」って言ってばかりいる。母は祖母と世間話、近所に僕ぐらいの年の子も少ない、学校はあるけど入れない、山も危なくては入れない・・・・。僕はつまらなそうに何度も見た車からの景色を、揺られながら見つめた。 直に、祖母の古い家と微笑んで手を振る祖母が見えてきた。車はゆっくりと速度を落とし、タイヤと小石がこすれる音を立てて止まった。僕が欠伸を一つして車を降りると、祖母は嬉しそうに「大きくなったねえ、今年で九歳だったかしら?」と僕の頭を撫で、「さあさあ、中にお入り。」と返事をする間もなく僕を家の中へと招いた。  外から見たままにボロボロの家は、薄暗く、床は抜けそうだった。さらに、玄関の黒いダイヤル電話が余計に古く見せた。畳の上に座れば、今にもミシミシと音を立てて抜けてしまいそうに不安になる。父と母は、祖母の家に上がると真っ先に居間の仏壇に向かって正座した。僕も仕方なく父と母の横で正座をした。僕にはこの瞬間が退屈で仕方がなかった。僕にとって、亡くなった祖父は全く知らない他人のような存在だったので、その行動が無意味に感じられ、段々大きくなるセミの声を聞いていただけだった。外から差し込んだ光の所為で、家の中が一層暗く見えた。暗い部屋の中で、騒がしい蝉の鳴き声を聞くのは、二、三分で終わった。父と母が祖母と世間話を始めたのだ。僕は、つまらないその話を聞こうともせずに、母に渡された麦藁帽子を被って出かけた。 毎年来ているから、小さな小川のせせらぎも、一面の田んぼも、遠くに見える山も、暗い森も、ゲロゲロと鳴く大きな蛙も、もう飽きていた。畑仕事をしている近所のおじいちゃんには、毎年同じ話を聞かされる。今年も1時間ほど聞かされた。「もう十一時だ、どうしていつも話が長いんだろ。」と、僕は、本の付録で付いていた薄い時計を見つめて、心の中で怒った。これから四日間、僕はお父さんの田舎にいないといけなかった。僕は、その四日間をどう過ごすかの計画を曖昧に立てながら、歩き様に小石を蹴った。蹴った小石は田んぼに落ち、小さな蛙がいっせいに逃げ出した。 サンサンと降り注ぐ太陽に嫌気がさす。汗だらけで、喉も乾いた。「暑い、暑い。」と口癖のように言って歩く僕は、ふと、目の前の小学校を見た。重そうな門がしっかりと入り口を護り、その奥に見えるものは古びた木の校舎、二階建ての校舎には今にも止まってしまいそうな時計があった。少しミステリアスで僕の小さな恐怖心をくすぐった。しかし、僕はその変わった雰囲気に惹かれ、人がいないことを確認して、門を登って中に入った。勢い良く跳んで、門を力いっぱいよじ登って学校に入った。 僕の目の前に広がる運動場はとても大きく感じた。奥に見える古い校舎がそう見せたのだと思いながら、辺りを気にして、急いで校舎の入り口に向かった。 古びた校舎は目の前にしても人気がなく、今にも何か出そうな雰囲気を持っていた。ゴクリと生唾を飲み込み、辺りを見回して、校舎のガラス張りの扉に手を掛けた。その時、校舎の裏側から何かが割れた音が響いた。僕はその音に驚き体中の毛が逆立ち、冷や汗を流して一瞬固まった。そして、咄嗟に扉から手を離した。徐々に静まる心臓を押さえて、僕はゆっくりと校舎の裏の方へと歩いた。足音を立てないように心がけても、何かへの好奇心が僕の足を早く動かす。次第に、靴と砂がこすれ合い、砂の音が立っていることにも気がつかずに僕は音のした方へと近づいた。 校舎の横へ周ると、雑草はわがもの顔で生え、セミの鳴き声は一層強くなっていたように感じた。校舎裏に近づくにつれて、好奇心の脈拍と恐怖心の脈拍が混じり、良くわからない気持ちが立ち込めてきた。僕はその気持ちを理解しようともせずに汗を流しながら雑草を踏み荒らした。校舎を背に密着させて、校舎の影からソロリとその場所を覗く。僕は、色々なものを想像しながら、何が来ても大丈夫なようにどう対処するかを想像した。けれど、心臓の音は一層強くなるだけだった。僕は心臓の鼓動が治まらないままそこにあるものを眼に映した。体中に毛が逆立ったけれど、そこには僕と同じ年頃の少女がじょうろを持って立っていただけだった。僕は、とりあえず何かがいたことに驚いた。驚いて隠れてしまったが、「今度こそは」と、もう一度校舎裏を覗いた。 「どうしたの?」と目の前にさっきの少女が僕の後ろに現れて訪ねた。 僕は驚いてその場にしりもちをついてしまった。心臓は強く鼓動して暴れている。勝手に入ったことの言い訳を考えたけれど、驚きすぎて声が出なかった。とりあえず、苦し紛れに僕はこんなことを言った。 「さっき何か割れる音がしたけど、何かあったの?」 「ああ、それは・・・。」僕の質問にその子は、後ろを向いた。 地面に力なく倒れる、一つの花と割れた植木鉢。こぼれた土は花に重々しく圧し掛かった。その周りには幾つもの植木鉢が並び、その周りだけ綺麗に雑草が刈られていた。その子は、その様子をじっと見詰める僕に、申し訳無さそうに言った。 「花に水を上げようと思ったら・・・落ちちゃって。どうしたらいいかと思って・・・。」 「とりあえず代わりの植木鉢を用意したら?」と僕は言うと、その子は 「あ、うん、そうだね。」と今思い出したように返事をした。そしてその子は、じょうろを僕に渡すと「探してくる。」と言って植木鉢が集まっている方へ走った。 ようやく、泥だらけになりながら新しい植木鉢に花を植え替えると、その子は泥だらけの手を叩いて泥を落としながら「ありがとう」とお礼を言った。急に言われたので驚いて「ああ、うん。」と少し薄い反応を取った。僕はそんな事を言いながら、その子の口から言葉が発せられるたびにドキッとした。この学校の生徒でもないのに勝手に学校に入ったことが分かれば怒られると思ったからだ。だから、その子の次の言葉に僕は心臓が飛び出すかと思った。 「君、なんて名前?見ない顔だけど。」  その言葉が僕の頭を空っぽにした。僕が考えていた幾つもの言い分けも、何処へ行ったのか何も残らなかった。とりあえず「えっと」や、「あの」「ああ・・」なんて、曖昧な言葉を持ち出して間を繋いだけれど、大してつなげもせずに「どうしたの?」とその子に聞かれ「ヒロキだよ。」と、観念して自分の名前を言った。けれど、僕は観念したけれど、まだ言い訳の心が残っていて、名字は言わなかった。 「私はアカリ。君、この学校の子じゃないでしょ。」  その子はアカリと名乗って、その後にそんなことを付け足した。僕は諦めて、いい訳を混ぜた事情を説明した。そんな話を精一杯、思いつく限り話した。アカリは「うん、いいよ。黙っておいてあげる。私も勝手に入ったから。」と、口元で人差し指を立てて、眼で「内緒だよ」と僕に言った。だから僕も人差し指を立てて笑った。  アカリは僕を連れて、裏のフェンスの穴から学校を出た。フェンスの針金が頬をかすめたり、木の実が服にくっついたり、変な虫が落ちてきたりと大変な目に合った。アカリに手を引かれて、わけも分からず走っていたものだから、何時の間にか知らない祖母の家がすっかり小さくなっていた。そろそろ昼ごはんを食べに戻らないといけないと僕は思った。時計を見れば、もう十二時半になっていた。「どうりで太陽があんなに高いはずだよ。」と考えながら、僕は、遅れれば皆が心配すると思い、アカリに言った。 「あの、アカリ。お昼ごはんの時間だし、そろそろ帰らないと。」僕が恐る恐る言うと、彼女は「もう帰るの?これからなのに。」と残念そうに言った。そんな風に言われたら、帰りにくくなるけれど、僕は、アカリを上手く説得して、「じゃあ、お昼ご飯食べたら、またココに集まろう。」と言い残して祖母の家へ走った。  僕は自分を急かしながら食事を取り、父や母の「どこに行くのか?」と言う問いかけにも気がつかないほど早く、この炎天下の下を出て行ってしまった。  僕は、走りながら近くの小さな木陰で寂しそうに待つアカリに手を振った。アカリは待ちわびた素振りは無く、笑ってこっちに大きく手を振った。僕がアレだけ急いだのに、アカリの方が早く来ていたのは少し悔しかった。だから、僕はアカリに「僕より早かったね。ちゃんとお昼ご飯食べた?」と聞いてみた。そうしたらアカリは足元の小石を拾って、ヒョイと近くの小川に投げながら「うん、ちゃんと食べたよ。ヒロキこそ遅かったね。何かあったの?」と自慢ぶる素振りも無く小石でお手玉をしながら僕に聞いた。「別に何も無かったよ。アカリが早かっただけだよ。」と、僕は少しムッとして言い返したが、アカリは「そうかな?」とお手玉していた石を全部ヒョイと掌に納め、地面に落とした。僕は、「アカリにはそれが普通なんだ」と納得して次の話題に乗り出した。 「ところで、これから何して遊ぶの?」と僕が聞くと、アカリは木陰から飛び出して、「こっちこっち」と走り出した。「待って!」と僕も急いで後を追った。小川の横道が少しずつ動き、畑もそれに合わせて少しずつ動く。そんな、当たり前で不思議な景色を横目で見ながらアカリを追って走っていると、アカリは少し先で足を止めた。僕は息を切らせながらアカリに追いつくと、咳き込みながら、小刻みに息をした。呼吸を整えて、アカリの視線の先を見ると、幅の広い板とも呼べそうな少し不安な橋が小川をまたいで掛かっていた。アカリは僕の方を向くと、手招きして小川の少し急な堀の斜面を下った。 「ねえ、何があるの?」僕が、アカリを心配しながら見下ろして聞くとアカリは、茫々と生える背の高い雑草の中から「もう少し待ってて!」と返した。  しばらくして、アカリは濡れた手に何かを握り締めて雑草の中から出てきた。堀を登って僕の所に帰ってきたアカリは「はい。」と掌を開いて、僕に手の中の物を見せた。アカリの小さな手の上に乗っていたのは、緑の綺麗な石だった。半透明の緑の石は、太陽の光を反射して掌の滴と一緒に一層綺麗に見せた。僕は、初めて見たそれに興味を強く惹かれ、その石を見つめながら「ねえ、この石なんていうの?何処で見つけられるの?」と興奮して聞いた。するとアカリは、僕の手を引いて小川の堀をゆっくりと下りた。 「一緒に探そう。」  水に手を付けると、冷たさが指先に広がり、僕は直ぐに水から手を出した。その様子を見たアカリはクスクスと笑って「冷たかった?」と聞いた。僕は首を縦に一度動かして、もう一度、今度は驚かないつもりで河に手を付けた。  ヒンヤリとした冷たさが体の芯まで響いた。水が流れる様子が肌を通じて良くわかる。大きな石や小さな石を、歪んだ水面から手探りで拾い上げてみると、それは角が無く、まるで誰かの芸術作品のように丸い。コケでツルツルとすべる小石や、どければタニシやらが出てくる大きな石、変わった形の石。色々な石が川底から現れた。けれど、その中から一つもあの石は見つからなかった。 「中々見つからないね。」  探し始めて数時間が経過した時、僕が黙々と探し続けるアカリに、会話も兼ねて言った。すると、アカリは「もうココにはないのかな?」と、石を一掴みとってジッと見つめたかと思うと、その石を掌から全て滑り落とした。そしてアカリは、橋の上に上って「向こうの橋に行こう。」とさらに川上の方を指でさしながら言った。僕も橋の上に上ってアカリの指差す方を見ると、延々と続く小川に遠くに橋がもう一つ見えた。アカリは僕に「行って見る?」と聞いたので、僕は「うん。」と大きく頷いた。するとアカリは「じゃあ、行こう。」と川上の橋へ走り出した。 サラサラと流れる川の流れに逆らうように横道を走り、たどり着いたその橋は、さっきの橋よりもボロボロで今にも抜けてしまいそうだった。僕は不安ながらも、少し好奇心をくすぐられ、そのボロボロの橋の上にゆっくりと飛び乗ってみた。ギシギシと音を立てて軋むその橋は、良く見ると小さな穴が開いていたり、コケが生えていたりと随分と前に作られたのだと僕は少し感心した。 「危ないよ、ヒロキ。その橋のコケで足を滑らせて、この間も女の子が落ちて大怪我したんだから。」とアカリに注意され、僕は少し怖くなり、滑らないようにゆっくりと歩いた。足が滑りそうになるたびにアカリは「気をつけて!」や「危ない!」と叫んだ。「渡り終えた」と僕が気を抜いた時だった、足を滑らせて僕の体は堀の方へと倒れた。突然の事に、驚きすぎて声も出なかった。頭の中は空っぽになって、なにをしたらいいのかも分からなくなった。そんな無防備に落ちる僕を助けたのはアカリだった。僕の服を引っ張って、自分の方に力いっぱい引き寄せてくれた。僕はおかげで堀を転げ落ちて痛い目を見ることは無くなった。その代わりに肘を少しすりむいた。 「大丈夫だった?」アカリが心配そうに聞くと、僕は冷や汗を拭って、コクリと頷いた。 「うん、ありがとうアカリ。アカリのおかげで、助かったよ。」と僕が今日二回目の驚きを抑えながら礼を言うと「危ない、って言ったよ。」とアカリは僕を叱った。  僕達はその後、夕日が半分ほど沈むまであの石を探した。汗だらけで、泥だらけになりながら探したけれど、見つかるのはただの石ばかりだった。アカリはタニシか何かを、嬉しそうに二、三匹拾っていたけれど、僕は全然だった。 「もう日が暮れたね。」僕が夕日を眩しそうに見つめていった。小川の水も夕日の色に染まり、辺りも少し涼しくなった。「僕、そろそろ帰らないと。」と僕が付け足すと、アカリは、途端に寂しそうな眼を見せた。 「もう、帰るの?もう少し遊ぼうよ。」と、アカリは僕を止めたけれど、僕は「もう時間も遅いし、アカリも早く帰らないと家の人が心配するよ。」と言って、暗くなる空を指した。時計を見ると、もう六時を回っていた。遠くに見える家々の明りも付き始め、烏の鳴き声が響く。星もチラホラと光り、群青色に滲んだ空に月も浮かび上がる。それらは、もうじき来る夜を告げた。そんな様子を見て、アカリも諦めたのか「じゃあ、また明日。」と少し残念そうに言って、小川の道の先にある山のほうへと走って行った。アカリは時々こちらを振り向いて、手を振った。僕もそのたびに手を振った。僕はアカリが砂粒のように小さくなるまでその場に立って、アカリを見ていた。振り返って、遠くに見える祖母の家の光まで走って行った。  朝の十時ごろに目が覚めた僕は、母に「いつまで寝てるの。」と怒られながら朝ご飯に手を付けた。炊き立てのご飯が丁度いい暖かさで、僕は今にも閉じてしまいそうな瞼をしながら、漬物と一緒に口に頬張った。お味噌汁が少し熱かったおかげですっかり目が覚めた。朝から祖母の話し相手になって、母に色々と手伝わされて、父の懐かしい話を聞かされた。毎年、朝から晩まで、話し相手につき合わされ、手伝いをさせられた。だから、お昼ご飯を食べたら、僕は有無を言わさず「行って来ます!」と出て行った。 「おはよう。」  麦藁帽子を被って飛び出すと、アカリが扉の前に立っていた。おはよう、と言われて僕はとりあえず「おはよう」ともう太陽が高く上っていたにもかかわらず、僕はそんな挨拶を返した。 「ヒロキを呼ぼうと思ったけど、中から“いってきます”って声が聞こえたから呼ばずに待ってたの。」 「そうなんだ。・・・でもアカリ、どうしておばあちゃんの家を知っているの?」  僕が不思議に思って聞くと、アカリは「まあ、そのことは置いといて・・・」と話を切り替えた。僕はアカリのそんな態度に何も感じなかったけれど、アカリの今日の行き先には驚いた。 「今日は、あの山に行こう。」とアカリが指で指した先には、周りの山とは何にも変わらないただの山だった。子供だけで山に行くのは危ないとは思ったけれど、アカリは強引に僕の腕を引いて走り出しので、行けないとは言えなかった。 「あの山には一体何が在るの?」とアカリに連れられて走りながらアカリに聞くと、アカリは「さあ、何があるのでしょう?」と、なぞなぞでも言うように僕に聞き返した。僕は少し考えてから「カブトムシ?」と自信なく応えた。するとアカリは「残念外れ。」と意地悪な笑い方をして言った。 「でも、私も本当に何があるか分からないの。だから、これから行ってみるの。」 「ふうん、そうなんだ。」僕は、少し遭難の心配もしながら淡白に答えた。  大きな杉の木と小さな水の流れる音に出迎えられて、僕達は山に足を踏み入れた。杉の木は空に刺さってしまいそうなほどに高く、「うるさい」と怒鳴りたくなるようなセミの声が山を埋め尽くしていた。登山道の一本道以外は急斜面と立ち並ぶ木々。登山道には、僕とアカリ以外は誰もいなかった。いるのは、虫や鳥ぐらい。僕は初めて入ったこの山の景色に圧倒されて、ポカンと口を開けたまま足元から上へと視点を上げて、最後には何も言葉が出なかった。 「口開けたまま上向いてると、虫が口にはいるよ。」  アカリは、僕の、上を向いたままの頭を真正面に向けて言った。「ほら、行くよ。」と、僕が真正面を向いたことを確認すると、先に歩き始めた。僕は、はぐれないように注意しながらアカリの後ろを歩いた。 入り口の平らな地面も、歩き始めて数十分もすればすぐに急な階段になった。それと比例して、虫の声が強くなり、鳥の数も増えていった。 「僕、こんな景色初めてだ。」好奇心や興味が詰まった眼で言った。 「ヒロキはどんなところに住んでたの?」 アカリにとってなんでもない景色に、あまりに僕が新鮮さを感じたものだから、アカリは不思議になったのだと思う。でも、僕にとっては本当に新発見だった。ココが余りにもつまらないところだと思い込んでいたからだった。なぜなら、祖母の家に来ても山には入らせてくれない、良くて近所の畑で父と蛙採り位だった。 「僕は、都会に住んでいたんだ。だから、こう言う景色は初めてだよ。」 「山や森が無くて、都会には一体何があるの?」とアカリは、心の底から分からないと言う顔で聞いた。僕は何があるのかを考えながら思いついたものを順番に答えて言った。 「家がいっぱいあって、店もいっぱいあって・・・・、あ、ビルもいっぱいある。」 「え?じゃあ、畑は何処にあるの?森は?川は?」とアカリは隙間無く矢継ぎ早に質問した。 「畑は・・・見たこと無い。森も無い。川はあるけど、すごく汚いよ。」  アカリは僕の回答に、とても驚いた顔をして、その後に「ヒロキは良くそんなところに暮らせるね。」と、僕を珍しい生き物みたいに見つめた。そして、アカリは「川や、山が無いのに生活できるなんて信じられない。」と付け足して、さっさと歩き出した。 「川も、森も、山も、大切な場所なんだから、それ無しで生活するなんて・・・。」  アカリは、登山道の最中ずっとそんなことをぶつぶつと不満げに呟いていた。そして時々、僕に向かって「川も、森も、命の源よ。それ無しで・・・」と僕に説教をした。僕はどうして怒られているのか分からず少し怒ったけれど、その反面「物知りだ」と少し尊敬していた。  どれだけ登ったのかは忘れたけれど、気が付けば祖母の家があんなに小さくなっていた。畑が僕の手の平に収まりそうなほど小さく、そこで畑仕事をする人はアリのように小さかった。僕は、見えるはず無いと分かっていながら、畑仕事をするおじさんに大きく手を振った。そうしたら、手を振った相手がこちらを見た様な気がした。気がしただけだったけれど、何故か嬉しかった。アカリはそんな僕を、少し先で呼んだ。 「ヒロキ!ヒロキ!早く、早く!」アカリに呼ばれて僕が走ると、その先には展望台と、そこから広がる無限の景色があった。青々とした畑、青みのかかった緑の山、砂粒のような人々、点々と建つ小さな家。その広がる景色を指差して、アカリが「あ、ヒロキの家!」と叫んだ。今度は学校を指差して「あれ、学校だ!」、その次は橋を指差して「多分、ヒロキと石拾いをした橋だよ!」と、次々と指差した。この高い山の上に吹く風を感じながら、僕らはあの小さな景色の一部の中から知っている場所を探した。当然ながら、アカリは僕なんかよりも多く知っていた。「あそこは蛙がいっぱいいる」とか、「あの橋は腐っていて危ない」とか。  少しすると、急に空が曇ってきた。僕達は急いで山を下りることにした。来た道と、上に登る道と、もう一つ下れる道。それを見たアカリは「そっちの道を通ろう。」と、もう一つの下り道を指差した。天気を気にしながら、僕もまた好奇心に駆られてその道に駆け込んだ。もう一つの道よりも急な階段が高い樹に囲われて、狭い一本道を作った。ただ、下へ下へと続く曲がりくねった道が、僕達の足を先へと誘った。僕達の足はその誘いに乗るように、止まることなく先へと進んだ。二段、三段と舗装された段差の道を飛び降り、誘われるがまま僕とアカリはその道の先へと進んだ。  その道を抜けた時、敷き詰められた砂利石が足元に広がっていた。僕とアカリは、そこにある景色を見渡した。手前に見える大きな社から鳥居まで続く一本の敷石の道には、田舎とは思えないほどの人があちらこちらで祭の準備をしていた。提灯を吊るす人や、屋台を組む人が沢山いる。 「ねえ、アカリ。何かお祭がるの?」と僕はアカリに聞いた。けれどアカリは首を横に振って「さあ、知らない。」と言って、その後に「あ、私の家、ココから遠いから、来たことないの。」と急いで付け足した。僕は疑いもせず「ふ〜ん、そうなんだ。」と、何事も無い様な顔で言葉を返した。 「このお祭っていつなのかな?」と、アカリが僕に聞くと、その声を聞いた近くのおじさんが言った。 「祭なら明日だよ。父ちゃんと母ちゃん連れて見に来な。」と、僕とアカリの頭を荒っぽく撫で、また仕事に戻った。僕とアカリは、「お祭、明日だって。」「明日だってね。」とあまり意味の篭っていない言葉を交わした。 僕は、普段閑散としているはずの神社が、祭囃子と共に賑わう姿を想像した。きっと今以上に賑やかになるに違いない。もっと沢山の人がここに集まるのかな。そう考えると、少しワクワクとした気持ちが胸の内側の小さな一点から湧き上がり、直ぐに胸をいっぱいにした。すると、僕は一つ名案を思いつき、直ぐにアカリに話してみた。 「ねえ、明日、一緒に祭に来よう。」 僕の誘いに、アカリは直ぐに「うん、行く。」と答えた。 「じゃあ、約束だよ。」と僕とアカリが約束して、もう少しココで遊んでいこうと考えていると、一滴の水滴が僕の鼻先に落ちた。冷たい水が鼻先で小さな水しぶきを上げて、僕の目に少し飛び込んだ。僕が思い出して空を見上げると、青い空を、黒い雨雲が朦朦と覆った。その空から落ち始めた雨はまだまだ少ないけれど、僕に落ちた雨は確かに大粒だった。僕とアカリは急いで走って、雨の降る前に神社の長い階段を下りた。階段を下りると、アカリは「私、こっちだから。」と、急いで僕とは違う道を歩いていった。僕はそんなアカリに手を振って、遠くに見える祖母の家を見た。一滴、二滴と落ちる大粒の雨は徐々に数を増やして落ち始め、あっという間に辺りは雨の音と沢山の雨粒で埋まった。その中をずぶ濡れになって帰った僕は、直ぐに着替えて、明日の祭には晴れるように、とてるてる坊主を吊るしてみた。  朝から降り続いた雨は、カンカンと屋根を叩き、昨日まで穏やかだった川をまるで別人の様に豹変させた。一寸先は闇というわけでもなかったけれど、遠くに見えていた山は、雨に隠されてすっかり姿を消してしまった。昼間だと言うのに、空は黒々としている。当たりも直ぐに覆われてしまいそうな程、光が届かなかった。祖母は「直ぐに止むよ。」なんて言っていたけれど、僕はとても不安だった。今日の祭が出来るかどうか心配で、朝から何度も窓の外を見た。「今頃、神社の方はどうなっているのかな」と考えながら、雨の中を必死で提灯を下ろす大人達や、雨に濡れないようにビニールをかぶせる大人たちを想像した。僕の口から溜息がこぼれて、直ぐに雨音に掻き消された。母と祖母が一緒に祭に来てくれる。お小遣いも貰える、昨日の夜はアカリとどの店を回ろうかすごく悩んだ。けれど、相変わらず雨は振り続けた。遠くで雷の音も響いた。空が少しだけ光り、雷鳴が空気の風船を破ったように大きな音を立てた。僕はその音に体中の毛が逆立ったのを感じた。けれど、僕は窓の外を眺めるのをやめなかった。吊るしたてるてる坊主が少し寂しそうに見えた。  祖母の言ったとおり、時計が七時を回ったころにはすっかりと雨がやんでいた。空はまだ雲が晴れないけれど、それでも雨は止んでいて、雲と雲の間からは月が時々顔を出していた。アカリの声が聞こえるまで、僕は靴を履いて、ウズウズしながら今にも飛び出しそうな気持ちを抑えてアカリを待った。けれど少し不安な気持ちもある。「もしアカリがこの雨のせいで祭に行けなくなったらどうしよう。」そんな不安と祭へ行ける興奮が交じり合って、僕の胸に広がった。靴を履いて、ジッと玄関で戸を見つめていた。「十分ぐらい待ったかもしれない、もう1時間は待ったかな?」と僕は錯覚した。実際は多分一分も待っていなかったと思う。でも、待っていたら家の前でアカリが僕の名前を呼んだ。  僕は勢い良く飛び出して、アカリを迎えた。けれどアカリは、特別綺麗な服を着てきたわけでもなく、おしゃれなサンダルを履いているわけでもなく、古びた白い半そでのワンピース一着を着て、ボロボロのサンダルを履いた何とも質素な恰好だった。けれど、アカリはそんなことを全く気にすることもなく、僕を「早く行こう。」と急かした。僕は一度頷くと「お母さん、おばあちゃん。早く行こう。」と母と祖母を玄関から急かした。二人とも、明日になってしまう、と思うほど呑気でゆっくりとしたペースで居間から出てきて、靴を履きながら「雨が降ったらいけない。」と傘を二、三本選んで、母は僕に一本渡した。僕が「そんなのいいから早く。」と急かしていると、父ものんびりと出てきて、車を出す準備を始めた。 父の車に揺られて神社の近くまでいくと、提灯のぼんやりした明りと祭囃子の賑わいが見え始めた。朱色の光が照りつける通りを真っ直ぐ見つめると、遠くの方に神社に続く階段が見えた。その道までに点々と見える露店と浴衣姿の子供達が、祭りの雰囲気を強めた。 「いっぱい人がいるね。」と、アカリが辺りを見回していった。 アカリは辺りを見回しながら、好奇心から先へ先へと、人と人との間をすり抜けて先へと進んだ。気が付けばアカリはココよりも、二軒も三軒も先の露店の前にいた。アカリはこちらを振り向き、手を振ってまた、先へ先へと歩き出した。僕は走ってアカリに追いつき、アカリの腕を掴んでそれを止めた。 「そんなに急いだら迷子になるよ。」僕はアカリに注意した。 しかし、アカリは僕のそんな注意もお構いなしに、あちらこちらに見える露店に目を奪われていた。僕はそれが不思議になって、アカリに聞いてみた。「祭りが珍しいの?」と。するとアカリは、「うん、まあ、私の家ココから遠いから・・・。」と曖昧な返事を僕に返した。僕はその事について深く追求しようとしたけれど、祖母と母が追いついて「ゆっくり行きましょう。」と母が僕たちの手を握って歩き出したので、僕はその事を追求しなかった。 神社への階段を上ると、祭囃子の音が大きくなり、人も神社への道までよりも更に多くなった。僕とアカリは、人の波に押されそうになりながら。人と人の間に微かに見える母を目印に前へ進んだ。僕は時々、アカリの様子を気にしながら、人の足と足の隙間を小さな足で歩いた。アカリは、僕が気にして振り向くたびに露店に立ち止まっては、魅入っていた。僕はその度にアカリを呼び戻した。 アカリを呼び戻すのはそれで五回目だった。僕がアカリの名前を呼ぶと、アカリは僕の呼びかけに返事もせずに、逆に僕を呼んだ。 「ヒロキ、コレ、コレ。」 アカリは夢中で、目の前のそれを指差しながら僕を呼んだ。僕は人ごみの流れに逆らってアカリの所へ、大人の足にぶつかりながら歩いた。母はそれに気が付いたのか、人ごみから外れ、遠くから僕とアカリを待っていた。僕が振り向くと、祖母は、笑って細い手を僕に振った。 落ち着かない人の流れを、無理やり飛び出した僕は目の前のアカリに急かされて、アカリがさっきまで魅入っていたそれを見た。透明の水あめが目の前で糸を引いて、割り箸に絡まった。水あめは、薄暗い橙色の掛かった灯りを点々と反射した。 「ヒロキ、コレ買おう。」 アカリは水あめを指差して僕の服の裾を引いた。僕は「うん。」と頷いて、ポケットから、母から貰った小遣いを取り出して、看板に書かれた水あめの値段と見比べた。僕は手の平の硬貨から百円玉を一枚取り出して、一本五十円の水あめを二本買った。僕は二本の水あめを受け取り、一本をアカリに渡した。アカリは「ありがとう。」と嬉しそうに言うと、二本の割り箸を片方の手に一本ずつ持ち、不器用な手つきで透明な水あめを割り箸で練り始めた。 「水あめはね、白くなるまでこうやって練ってから食べるんだよ。」 「へえ、そうなんだ。」と僕は感心した。今まで何度か見たことはあったけれど、食べるのはこのときが初めてだった。透明の、溶けかけたガラスの様なそれは、白くさせてしまうのを勿体無く思うほど綺麗な透明をしていた。それを勿体無く思いながら、僕は力いっぱい粘土のように柔らかくて、重い感触の水あめを、僕とアカリは歩きながら夢中で練った。透明な水あめが徐々に白くなり始め、僕は「あと少し。」とそれを楽しみながら、母と祖母を見失わないように人ごみの中を歩いた。 祭囃子と人の声が込み入る熱気の中に、一滴だけ僕の頭に冷たいものが落ちた。今度は足元に一滴の雫が落ち、僕の足に跳ねた。落ちた雫は、ボンヤリと石の床に丸く滲んだ。直ぐに二滴、三滴と数を増し、立ち込める薄い砂埃を払い、徐々に石の床を濡らす。僕は急いで傘を指した。母が僕に渡した傘は大人用の傘だった。大きな紺色の傘を開くと、空から降る大量の雨粒から逃れようと走る人々が僕を避けて走った。風が吹く度、傘は大きく揺れ、雨が落ちる度、傘は震えた。大粒の冷たい雨は、次第に祭の熱も冷ました気がした。 「あれ、アカリは・・・」 僕はその時初めて気が付いた、アカリがいないことに。僕は急いで辺りを見回した。傘を差して祭を楽しむ人、雨が降っていてもお構い無しの人、雨宿りができる場所を探して走る人、色々な人がいたが、そこにアカリの姿は全く無かった。何処を向いても、どの子供を見ても、アカリはいない。「アカリ!」と、名前を呼んだけれど、返事も返ってこない。返ってくるのは再び聞こえ始めた祭囃子と人の声、そして五月蝿く振り続ける雨の音だけだった。次第に強くなる雨が、僕の、アカリを心配する心を強く揺さぶった。 大きな傘に振り回されながらも、僕はアカリの名前を呼び、走った。母と祖母には「大丈夫。」と言ったけれど、僕は心配で仕方が無かった。アカリの行きそうな露店は全部探した。アカリの姿をあちこちで探した。しかし、アカリの姿は何処にも無かった。僕はまだ練っている最中の水あめの割り箸を強く握った。アカリを夢中で探すあまり、僕は、気がつくと人通りの少ない露店の裏側にいた。露店の裏側は、意外な広さに対してとても暗く沈んでいた。音も少し小さく感じた。まるで、祭の光に照らされてできた影のような、そんな場所だった。 大きな樹が立ち並ぶ中、一本だけ際立って小さな樹を僕は見つけた。僕よりも遥かに大きい。けれど、他の木々からすればとても小さかった。 その樹に生い茂る緑の広葉が無数に重なり合い、強く叩きつける雨を和らげた。アカリはその樹の下で、薄暗い光に照らされていた。雨から逃げるように樹に寄り添い、人ごみを羨むように祭の風景を見つめていた。その様子を見ているだけで、祭の風景が遠くに感じられた。さっきまで焦っていた僕の足が、急に歩くのをやめてしまった。アカリの姿は、近づけなくなるような寂しさを帯びていた。 「アカリ。」 僕は色々なものを振り払って、アカリの名前を呼んだ。アカリがこっちを振り向くと、僕はゆっくりとその樹の下まで歩いた。振り向いたアカリの取り繕った笑顔は、今でも忘れられない。 「ゴメン。よそ見をしてたら、ヒロキを見失ったの。」 無数に覆いかぶさった葉っぱの間をすり抜けて、一滴の雨粒が僕とアカリとの間に落ちた。僕はその言葉に、何か言葉を返そうとした。けれど、何も返す言葉も無く、傘をたたんで僕も樹に寄り添うだけだった。何も言うことが無く、僕はとりあえず、「見つかってよかった」と言おうとした。 「雨はとても大事で、雨が降らないと生き物は生きられないよね。」 半分、問いかけるように僕に言った。僕は、正に正論だと思い、頷いた。アカリはこちらに向けた顔を、今度はあの祭りではなく、少し穏やかになる雨に向けた。 「その代わりに、この雨のせいで沢山の命が亡くなるの。」 その言葉は、その時の僕にはただの難しい言葉だった。何もわからず、僕はただ頷いただけだった。次第に雨脚が弱まり、数分もしないうちに雨はすっかり退いていった。 「止んだね。」 「うん、止んだね。」 そんな問答を一つしただけで、無言のまま、僕とアカリは母と祖母のところへ戻った。 蛍の光に照らされるぬかるんだ道を歩いて、僕は橙色の光が灯る神社を振り返った。来た時よりも遥か遠く、涼しげで、祭りの賑わいが少し静まったような気がした。あのアカリの寂しげな姿を思い出すと、目の前を黙って歩くアカリが得体の知れないもののように感じた。虫の音よりも近いはずなのに、あの月よりも遠いような気がしてならなかった。蛍の光が僕のそんな気持ちを照らしたような気も一緒に立ちこめた。  祭りの疲れはどこに行ったのか知らないけれど、僕は朝早くに目が覚めた。夢で何を見たのか思い出せなかったけれど、いやな予感だけはしていた。立ち込める不安から逃れるように、僕はもう一度布団の上で横になり、目を閉じた。  再び目が覚めたのは八時ごろだった。太陽が高く上り、寝室の障子越しに陽光が僕を照らした。蒸し暑いその陽光に起こされた僕は、額の汗を拭い、居間へ向かった。  「お母さん、おはよう。」  僕は目を擦りながら、欠伸と共に母に言った。  「おはよう、早くご飯食べちゃいなさい。」  母はそう言うと、祖母に代わって自分達の食器を流し台に運んだ。僕は母を横目で追いながら、席に着いて朝食を目の前にした。黄色い沢庵と白いご飯、白味噌の味噌汁が目の前に置かれていた。昨朝と同じ朝食だった。僕は寝惚け眼で、箸を見つめた。母はそんな僕に「早く食べちゃいなさい。」と活を入れた。僕はまだ、ぼやける意識を振り払って、箸で沢庵をつまんだ。  少し冷めたご飯を噛みながら、僕は祖母の家に来てからの3日間を思い出した。「色々あった」と、僕は目覚め始めた頭で思った。つまらないとばかり思っていた父の田舎が、これほど楽しめたのは初めてのことだった。僕は心の中で、アカリに感謝の気持ちを抱いた。色々なことを思い返しながら味噌汁をすすっていると、母が僕に言った。  「そうそう、明日朝一番に帰るから、今日のうちに、昨日来た子に挨拶しときなさいよ。」 僕はその言葉でやっと完全に目が覚めた。  「そうか、今日で最後なんだ。アカリにお別れ言っておかないと。」  僕は空になった食器を流し台に持っていくと、流し台で食器を洗う母はその言葉を聞いて、思い出したように僕に言った。  「あの子、アカリちゃんって言うの?」  「うん、そうだけど・・・。どうかしたの?」  「あの子、この辺の子じゃないらしいわね。おばあちゃん言ってたわよ。」  僕はその事を初めて知った。驚いた僕はつい、返事を忘れていた。そのことを知った僕は、余計にアカリが遠い人のように感じた。それにしてもアカリは不思議な子だと思った。この辺の子でもないのに、どうしてココのことが詳しいのだろう。その疑問は、朝の間、ずっと僕の頭の中に残っていた。  僕は昼食に出された、質素な素麺を食べたのか、食べてないのか分からないほどぼうっとして食べていた。食事中、ずっとアカリのことを色々と考えてみた。アカリが、何故この辺りの子ではないのにこの辺りのことに詳しいのか。アカリは何故、昨日あんなことを言ったのか。アカリの親はどんな人なのか。アカリは一体何者なのか。僕の頭の中で色々な考えが渦巻いた。 昼食を食べた後、僕は明日に向けて帰る仕度を始めた。持ってきた物を鞄に積め、母に手伝いをさせられ、祖母の話し相手をさせられた。気が付けば時計は三時を回り、僕は急いで、アカリに会いに家を飛び出した。いろいろな疑問を抱えて。けれど、僕はアカリが何処にいるのか全く知らなかった。だから、僕は真っ先に学校へ向かった。アカリと初めて出会ったこの学校は、相変わらず不思議な怖さがあった。僕は辺りを見渡したけれど、人影はどこにも無く、ただ、しんと静まり返っていた。僕はアカリの名前を呼んだ。僕の声が響き渡り、こだまして消えた。こだまが消えると同時に、僕は妙な不安のようなものを感じた。せっかく仲良くなれたと思っていたのに、アカリの方は友達でも何ともないと思っていたら。そんな不安が胸の中でいっぱいになり始めていた。そのいっぱいになった不安から逃れるように、僕はもう一度アカリの名前を呼んだ。  「聞こえてるよ、ヒロキ。」  アカリは、僕の後ろからそっと現れてそう言った。僕が振り向くと、アカリは「おはよう。」と言った。この時間で“おはよう”はおかしいと思ったけれど、僕は「おはよう。」とつい返してしまった。僕が挨拶を返すと、アカリは笑うこともせず、ただ僕の手を握って「今日はヒロキに見せたいものがあるの。」と言った。僕の返事を聞く間もなく、アカリは強引に僕の手を引いて走り出した。  太陽が少し傾いて、僕らを照りつけた。アカリはその下を走った。一日目に僕とアカリがあの石を探した小川に沿って真っ直ぐと進む。そのとき僕は、あの時アカリがこの道の先の山へ帰って行ったのを思い出した。この小川の先に見える大きな山は、周りの山よりも背が高く、何か独特の雰囲気を持っていた。  「ねえ、アカリ。どこへ行くの?」  僕は手を引かれながら、目の前を走るアカリに聞いた。アカリはこちらを振り向くこともせず、ただ走って、あの山へ向かった。その時、僕はアカリに対して、何か恐怖のようなものをイメージしていた。  あのときの橋を通り過ぎて十分程が経ったと思う。ペースは落ちてきたけれど、確かにあの山は近づいてきていた。徐々に近づきつつある山の麓には、森が大きな口を開けたような、薄暗い入口が構えていた。その入口に僕は不安を感じつつも、アカリに強く腕を握られて、引きずり込まれるような気持ちで薄暗い入口をくぐった。  中は外から見た程暗くは無かったけれど、背の高い樹は光を所々遮った。降り注ぐスポットライトの様な光は、大きな木の根を点々と照らしていた。ただ、僕は入口をくぐってから、まだ一度もまともな道と呼べるものを通っていなかった。少し傾いた地面の上に、山ほどの樹が背を伸ばしていた。樹の根は僕たちの歩く一本の道に乗り出していた。それでも樹は左右に分かれて、僕たちに道を開けるように生えていた。アカリは僕の手を更に強く握って「絶対に離さないでね。」と、こちらを振り向くこともせずに言った。  奥へ進む度に、僕は何かの不安に駆られた。胸の奥で、学校の前でアカリを呼んだときとは違う不安が、僕の胸の更に奥をキュッと絞めた。もしかしたら、今朝感じた嫌な予感はこれだったのかもしれない。その事を考えていると、僕の中に急にある具体的な不安が立ちこめた。  「アカリは、もしかしたら物の怪なのかもしれない。僕をどこかへ連れ去ろうとしているのかもしれない。」そんな、不安が体中を走り回った。急に薄暗く感じ、前を向いて無言で僕の手を引くアカリが何か恐ろしいものに見えた。その時、突然アカリは足を止めた。  「ねえヒロキ、少し疲れたね。休んで行こう。」  「うん・・・、そうだね。」  アカリがやっと見せた笑顔に、僕のさっきまでの不安が心の奥底に身を引っ込めたような気がした。近くには川が流れ、さらさらと涼しげな音を立て、僕は近くの木にもたれ掛った。硬くて凸凹した表面が少し痛かったけれど、僕はそのまま座り込んで、一息ついた。時計は四時を指し、僕は、気が付かない間に一時間も経っていたことにようやく気づかされた。そして、一息つくと、アカリに聞いた。  「アカリ、見せたいものって何?」  するとアカリは僕のとなりに座って首を振った。  「それは教えられない。そんなことよりも、ヒロキが住んでいる所の話を聞きたい。」とアカリは話を逸らすように言った。僕はそれに不自然に思いながら、「別に、一昨日も言ったみたいなところだよ。」と返した。するとアカリは、また、別の質問をした。  僕の好きな食べ物。僕の友達。僕の好きなこと。僕の普段の生活。時間を稼ぐような質問を長々と一時間近くした。その質問を不自然に感じ続けた僕は、何度もアカリが何者なのかを聞こうと思ったけれど、その度に引っ込んだ不安が僕の口を押さえた。  時計を見るともう五時になり始め、太陽も次第に遠くになり始めた。アカリも話すことがなくなり始め、僕はようやく、聞くべきか聞かないでおくかの決心がついたところだった。僕は、アカリが何かを尋ねる前に、割り込むように聞いた。  「アカリ、君はいったい何者なの?この辺りの子でもなくて、それなのにこの辺りのことが詳しくて。この山に帰って行く。僕は友達なのに、君の事を全然知らない。君はいったい何者?」  僕は思っていることを全部吐き出した。心の中で不安が暴れるように心臓が強く脈打った。アカリはその言葉を聞くと、立ち上がり僕に言った。  「そうだよね、やっぱり話した方がいいよね。友達だもんね。」  アカリはその一言だけ言うと、僕の手を引いて歩き始めた。アカリは何も言わずにさっきよりも急ぎ足で森を歩いた。  少し歩くと、小さなボロボロの社を見つけた。木々に囲まれ、屋根には苔がびっしりと張り付き、あちこち腐り始めていた。アカリはそこで足を止め、僕から手を離した。  「待ってて。」と、アカリは振り向きもせず僕に言って、社の中へと入って行った。その姿を見た僕は、今までの不安が最高潮に達した。今にも不安に駆られて走りだしそうな気持ちでいっぱいになった。けれど、僕は、その場でアカリを待った。  少しすると、アカリは両の手のひらに何かを大事そうに持って現れ、つぼみの様に閉じた両手のひらをじっと見つめながら、アカリはゆっくりと社の中から、僕のほうへ歩いた。  「怖がらずに聞いて。疑わずに聞いて。」  アカリは僕の目の前に、閉じた両手のひらを差し出し、僕は何も言わず、差し出されたそれを見つめた。ゆっくりと手のひらが開き、アカリの小さな手の中に納まっていたものが姿を現した。  虫が一匹。赤い頭をした、黒い翅の甲虫が弱々しく手のひらの中で腹の末端から少し緑がかった黄色い光を、ぼんやりと放っていた。僕はこの虫を知っていた。これは“蛍”、綺麗な水辺に住む虫。この蛍は足が二、三本折れて黒い甲の中に畳まれた羽が、千切れて飛び出していた。弱々しい足は動くこともせず、ただ、短い触角を微かに動かしていた。  「これは蛍だよね。これがどうかしたの?」  僕は思った疑問をそのまま口にした。アカリが物の怪だとか、そんな現実離れしたことを予想しておきながら、そんな事を聞いた。アカリはぼんやりと光る蛍を、寂しさを感じさせる笑みで見つめた。アカリの顔をそっと照らす、光が余計にアカリの表情を寂しく見せた。アカリは表情を崩すことなく、また、視線も逸らすことなく、蛍に言ったのか、僕に言ったのかもわからなかったけれど、確かに言った。  「これは私。この弱々しい姿が本当の私。」  僕はその言葉が何かを暗示する言葉だと思った、けれどアカリは、僕を見て首を横に振った。  「何の表現でもない、言ったとおりだよ。私は蛍、人の姿をしているけど蛍なの。」  僕は何も言えなかったし、何もいう気が起きなかった。疑う気持ちは、どこにもない。アカリの表情と、口調が僕の疑う気持ちをどこかへやってしまったから。唖然として立ち尽くした。アカリはそれでも、言葉を続けた。  「私は、丁度一週間前、そう・・・成虫になったばかりの時ね、大雨が降ったの。人間にとっては、川の水嵩が増した程度かもしれないけれど、私たちにとっては重大な問題よ。私は川に流されたの。そうしたら、川上から流れてきた空き缶が私に当たったの。私の体は殆ど動かなくなったわ。気が付いたらこの姿でここにいたの。不思議でしょ。」  僕が黙りこくっていると、アカリは「嘘じゃないよ。」と自分の足元を指差した。アカリが指で差す、アカリ自身の足は、ぼんやりと薄くなっていた。  「私は、今日の日没には消えてしまうわ。この蛍の私も息絶える。だからお別れを言いたかったの。」  僕はこの時、初めて嫌な予感の正体を理解した。朝から感じていた嫌な予感はこのことだった。西の空に現れた茜色の太陽が僕たちを照らした。僕は何を言っていいのかもわからず、ただ立ち尽くした。いろいろな気持ちが一度に流れ込みすぎて、僕の頭の中は真っ白になっていた。初めてアカリに会ったときと同じ、頭の中が真っ白だ。そう思うと、何故かあの日がすごく遠い日に感じられた。  「突然のことで頭がいっぱいになったかもしれないよね。ごめんなさい。」  「どうしてもっと早く言ってくれなかったの・・・。」  僕は、まとまらない頭の中から唯一その言葉だけを取り出して口にした。本当に、どうして教えてくれなかったのか、僕は彼女を恨みさえした。  「ヒロキに悲しい思いをさせたくなかったし、何よりも、私だけ悲しんでもらっていいのかな、って思って。人間は、私たち虫が死んだところで悲しんだりしないのに、私だけ悲しんでもらったら、罰が当たる気がしたの。他の蛍の皆に悪い気がしたの。」 「そんなことないよ。」僕は心の中だけでそう叫んだ。けれど、その勢いはアカリの言葉に消された。  「それにね、人間は蛍の敵だもの。」  その言葉に、僕は胸を茨で締め付けられたような気分になった。  「人間がごみを捨てれば川が汚れる。私達は汚れた川では生きられないの。人間は、私達“蛍”を滅ぼすウィルスよ。私たちの生きられる場所を汚す毒よ。」 僕は自分も含む人間全てを恨み、僕が今まで何も意識せずにしてきたことを、深く恨んだ。そう、今にも自分の体をこの自然に投げ打とうと思う程。 「だから、この体はもしかしたら、人間に復讐をする為にもらったのかもしれないわ。」 アカリは寂しそうに笑って、まるで蛍に語りかけるように言った。 「でも、もうそんなこと関係ないね。だって、後数時間の命だもの。」  日の傾きと共に、蛍の光が弱くなり、アカリの体が足元から徐々に消えていった。まるで、すぐそこに迫る、夜の闇に食べられている様に。  「ヒロキ、最後に私のお願いを聞いて。」  僕は、何も言わずにうなずいた。言葉を口にしたら、何か栓が抜けて泣いてしまいそうだったから、何も言えなかった。  「ありがとう。私、綺麗なお水が飲みたいの。あそこの川でお水を少し採ってきて。」  コップなんて当然なかった、水を救えるものは僕の手のひらだけだったけれども、そんな事を考える前に僕はゆっくりと足を前に動かしていた。僕の後姿にアカリは蛍の歌を歌いだした。  「ほう、ほう、ほうたるこい、こっちのみずはにがいぞ、あっちのみずはあまいぞ。ほう、ほう、ほうたるこい。」  僕はその歌に背中を押され、今にもこぼれそうな涙をこらえて川を目の前にした。数匹の蛍が川に集まり、ひらひらと飛んだ。アカリの歌はまだ聞こえていた。 「ほう、ほう、ほうたるこい。あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ。ほう、ほう、ほうたるこい。」水面が揺れて、僕の顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。小さな波が僕の前髪と額を混ぜて、目が何処にあるのかを分からなくした。蛍の光だけがはっきりと映る・・・。手のひらで、そっと水を救うと、僕は走り出した。指と指の隙間から水が零れ落ちた。  アカリに水を差し出した時は、もう手のひらに水がほとんど残っていなかった。アカリはその水を見て、「ありがとう。」と言って、その水を飲むこともせず、僕の手のひらの上にそっと何かを置いた。それは冷たくて硬い、けれど、緑色の半透明な石。  「それね、実はただのガラス片なの。ガラス片が長い時間を掛けて丸くなった物よ。不思議ね。人間が捨てたごみがこんなに綺麗なんて。」  「きっと、僕とアカリの思い出がいっぱい詰まっているからだよ。」と僕は少し、無理して笑った。  「そうね・・・。だから、それ上げるよ。私とヒロキの大事な思い出だから。大事にしてね。」  僕は「ありがとう。」と涙を堪えて言った。  「さあ、もう帰る時間よ。この樹の道に沿って歩けばきっと帰れるわ。」  アカリは、僕たちが来た道を指差した。僕は何も言わず頷いて、アカリから一歩離れた。僕は悲しい気持ちを抑えて、震える声でアカリに聞いた。  「怖くないの?」と。するとアカリは、首を横に振った。  「私は他の蛍たちと同じだけの一生を過ごしたから、もういいの。それに、この人間の体に成れた意味が少し分かった気がする・・・。」 僕はその意味が何だったのかは聞かなかった。その体は、人間と話し合う為のものなのかも知れないと、強く信じていたから。 「さあ、日が落ちる前に早く帰って。ヒロキが無事に帰れないと、私、安心できないから。」  僕は、一歩、また一歩とアカリから離れていった。アカリの足は完全に消えているにもかかわらず、アカリは僕を笑って見送ってくれた。だから、僕も最後に声を振り絞っていった。  「ありがとう、絶対、毎年この社に御参りに来るから。絶対忘れないから。」  あふれる涙を拭かずに、僕はアカリにそう言って、走り出した。それが僕の、精一杯の言葉だった。これが、その夏の一番楽しく、一番忘れられない思い出が終わった瞬間だった。  今、僕はあの石を片手に、この風景の前にいる。古びた社、背の高い樹。差し込む木漏れ日。あの時とは変わらない風景に、僕は小遣いで買った一厘の花を置いた。僕は冗談半分で「ただいま。」と言ってみた。木々の葉が擦れ合い、森の音がした。僕には、それがアカリの「おかえり。」に聞こえた。
 


 
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